あずまきよひこ『よつばと!』12巻

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 12巻には第77話から第82話までが収録されている。しかし、12巻という「本」は第77話から始まってはいない。第77話の中扉は13頁にあるが、その手前から『よつばと!』は始まっている。まず読者の目に入るのは、よつばが住んでいる町にそびえ立つ鉄塔と送電線。そして、上空から見下ろした形で、家の前でしゃがみこみ道路にチョークで絵を描いているよつばの後ろ姿が見える。前巻で息を吹き返したジェラルミンが門の前にちょこんと座っている。頁をめくると、「こう」「こうこう」という声。よつばはしゃがんだ姿勢のまま後ろを振り返るが、そこには「誰もいない」。昼間の住宅街には珍しいことではないが、道路には全く人気が無い。道路に「誰もいない」ことを示す2頁中段のコマの次に来る下段右のコマで、よつばの視線は「こちら」を向いている。読者はよつばと目を合わせる格好になる。しかし、「よつばの世界」の中で、よつばは誰とも目を合わせていない。読者のいる場所には「誰もいない」。

 「こうこう」と啼くのは空を群れて渡る鳥だった。地上から見上げた鳥の群れ、その姿に目を奪われるよつばの姿が入れ替わり立ち替わり、ダイナミックな空間が切り開かれ、空と地上を見開きでつなぎ合わせ、そこに「よつばと!12」のタイトルと著者の名前が登場する。鳥の群れを追いかけて走り出すよつば。そのよつばを鳥の尾から見下ろすようにしてコマを映すカメラはだんだんと遠ざかる。11頁の中段、そして12頁で、鳥に向かって手を振るよつばと読者は再び目を合わせる。「よつばの世界」の中で、よつばに見えるのは鳥の後ろ姿だ。もちろん、そこには目はついていない。読者は「存在しない目」を通してよつばを見下ろす。

 読者が「存在しない目」を通して作中世界を見ることは漫画に限らず映像作品一般においては珍しいことではない。もちろん一定の空間を実際に占め、物理法則に逆らうことのできない実写作品ではそうした視点の取り方にある程度の制限が生じるが、漫画やアニメは比較的自由に視点をとることができる(この自由度が逆に漫画やアニメにおけるリアリティ形成を難しいものにしてもいる)。ふつう読者は「存在しない目」を意識せずに映像作品を見る。もっと正確に言えば、「諸々の映像作品を自然に見る/読むことのできる技術」とは、「存在しない目」に自分の視点を重ね合わせても違和感を感じない技術のことである。漫画についてもそれは当てはまる。

 文芸作品における三人称的な視点の取り方は大きく分ければ二種類ある。一方が話の中心人物たちから距離をとった特定の第三者の視点に仮託して中心人物たちを「三人称」として叙述する(一元描写)のに対し、他方は作中の誰の視点にも依存しない(多元描写)。いわゆる「神の視点」である。文芸作品で採用される「神の視点」と、漫画における「存在しない目」から切り取ったコマ描写は、読者の視点を作中世界の何者かに仮託させない点では一致する。とりわけ、作中人物たちの心内を描写する、あるいは作中人物を自由にコマの中で描写することを必要とする漫画において三人称多元描写は都合が良い(作中の特定人物に視点を固定すると、漫画の中でこの人物は鏡やカメラにでも映さないと顔を描かれることがない)。

 さて、漫画と文芸作品の大きな差異の一つに、人称の移動の難易を挙げることができる。文芸作品で三人称視点を一人称視点や二人称視点に切り替えようとすれば、高度な技術が求められる。稚拙なものは文体の一貫性の無さばかりが目立って読みづらく、逆に技巧を凝らしたところでそれについていける読者は限定され、たいした演出効果も得られないこともある。三人称一元描写は作中の特定の人物の視点を借りているので、そこから一人称視点や二人称視点に移行することは不可能ではないが、多元描写となるとかなりの困難が予想される。ところが漫画は文芸作品に比べてこうした困難さがかなり軽減されている。もちろん、障害が少ないからといってそれが良いこととは限らない。人称叙述法をころころ変える漫画作品は読みづらくなる傾向にあり、不統一は稚拙さを際立たせることの方が多い。それでもやり方次第で三人称多元描写を二人称描写に移行させることは可能であるし、それが大きな効果を生むことがある。

 よつばがこちらを向き、読者とよつばの目があう。しかし、前後の文脈から、よつば見ている先には「よつばの世界」の中では「誰もいない」。誰かと目があう、という出来事は二人称の関係性、すなわち「私-あなた」を形成する最も基本的な要因である。目を合わせようとしない人は、熱心に話をしている最中でさえ、どこか自分にとってよそよそしい存在に感じられるし、反対にどんな言葉がなくとも目を合わせることで「私-あなた」のコミュニケーションは成立しうる。よつばと目があうことで読者はよつばと二人称の関係に置かれる。しかし、「よつばの世界」の中で、よつばは誰とも人称的な関係を結んでいない。読者は前後のコマからそのことを感じ取ることができる。結果として、読者にとっての「あなた」がよつばであるように思われる場面でさえ、よつばにとっての「あなた」は「世界のどこにも存在しない」ことが露わになる。三人称多元描写を目で追っている間は、よつばは読者にとって「近しい存在」に感じられていた。ところが、二人称視点が導入されたところで、その「近しさ」が虚構であることに読者は気付かされる。「自分はこの世界の住人ではない」という「現実」が白日の下にさらされる。

 こうした見方から12巻の最後の頁に目を向けてみよう。上段に大きな空と、ただっぴろい丘。そこによつばが一人、地平線の向こうを眺め、その後ろ姿をこちらに見せている。そして下段で振り向き、カップを両手に抱えながら笑顔でこう語りかける。「きょうは/なにしてあそぶ?」。語りかけられてはのは誰なのか? よつばの顔が上を向いていないことから小岩井やジャンボややんだではなさそうだ。遠くにいる大人に語りかけているのならば、もっと声を張り上げていることだろう(『よつばと!』では声を張り上げているところでは一貫してふきだしの文字が太字になっている)。では一緒にキャンプに来ている恵那やみうらだろうか。なるほど2つ手前の頁ではよつばの隣に恵那がいる。だが、直前の頁は朝日に照らされてできた自分の影を見て「ほら!すごいながい!」と言っているよつばを見下ろす小岩井、そしてそのよつばに小岩井がココアを差し出す場面、ココアを飲むよつばを大写しにしたコマしかない。よつばの周囲には小岩井しかいなかった。そして、ココアを渡されてからよつばが移動した描写はない。そうすると自分の長い影を見ていたところでよつばと小岩井は皆から少し離れたところにおり、ココアを渡してから小岩井がよつばから離れたのだと推測できる。近くには他に誰もいない。にもかかわらず、よつばは「近くにいる誰かに語りかける」かのような言葉を発する。読者はちょうど視線が合う位置からよつばを見ている(実際には、よつばは笑顔で目を細める、という漫画独特の「笑う」表現のために視線がどこを向いているかは特定しづらい)。だから、読者はよつばが自分に向かって語りかけているかのように思える。しかし、ここに至るまでの描写から、そこには「誰もいないのではないか」という疑念に駆られる。自分は「よつばの世界」の住人ではない、そのことに「再び」気付かされる。そして、もしそうだとするとよつばは「誰もいない場所」に語りかけていることになる。あるいは、「よつばの世界」の「外」に向かって(だが、この「外」はよつばのすぐ近くにある)、よつばは語りかけている。

 ところで、12巻最後の頁のよつばの台詞は、第79話の後半に既に出てきている台詞の再帰である。あさってにキャンプを控えて期待に胸を膨らませるよつばは寝床に入り、「よつばとー/とーちゃんとー/ジャンボとー/えなとー/みうらとー」「なにしてあそぶ?」とすぐ横で寝そべっている小岩井に語りかける。この父親が「何して遊びたい?」と返すと、「かくれんぼしてー/おにごっこしてー」と答えながらよつばは眠りに落ちていく。この79話で眠りに就く直前にされたやりとりの続きが、キャンプに出かけた82話の最後に、朝早く目覚めてから繰り返されているのだ。自宅の寝床というきわめて慣れ親しんだ場所で発せられた言葉が、遠くのキャンプ場の、太陽と月が両方とも見えるような早朝という異世界で引き取られ、もう一度発せられる。かつては父親に向けられたこの問いが、ここでもまた父親に向けられているのだとしてもおかしなことはないだろう。そう読めるにもかかわらず、12巻の冒頭がもたらす「二人称の不安」が読者を巻末で様々な想像に駆り立てる。よつばは、「よつばの世界」の住人ではない、どこにも存在しない読者の私に向かって語りかけているのではないか、と。よつばは「世界」の「外」が、文字通り「紙一枚を隔てて」あることを知っているのではないか、と。それでも、読者である私は「よつばの世界」に入り込むことはできないのだ、と。

 二人称視点が近しさよりも疎外を強調し、三人称多元描写から二人称視点への移行によって世界の外部に通じる一点に穴が空く。こうした視点の構造を意識させるように、巻末の奥付には前巻で買ってもらったカメラを手にして「こちら」を写そうとするよつばが描かれている。果たしてそのカメラには誰が映っているのか。何が写されるのか。カバーを外したところにちりばめられた、よつばの手による数々の写真の中にそれはあるのだろうか。よつばと二人称的な関係をうまく取り結べないことに気付かされた読者の姿は、「よつばの世界」に隣接する空虚として、もはやカメラの視点にさえ映らないのだろうか。