漫画批評の意義(4)

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 漫画批評の意義(3)の続き。
 果たして表現の受容の仕方を「論理的に正当な仕方」で記述することはできるのだろうか。言い換えれば、表現を受容するという経験の構造を客観的に記述することは可能なのだろうか。それが不可能な理由を考えることは比較的たやすい。まず、そうした反論をとりあげ、それらに再反論を加えるところから始めよう。

1. 表現-受容分析の消極的な擁護

 第一に、ある漫画作品の表現をある読者が受容するという経験は基本的に個別的な経験である。それゆえ、その経験の構造もまた個別的なものにすぎず、客観的な記述などできない、というものだ。しかし、これには大きな錯誤が含まれている。例えば、私の手元にあるボールペンに私が目を向けるとしよう。そのとき、ボールペンの姿は視覚を通して私に受容される。この受容の経験は確かに今の私と手元にあるボールペンのあいだで生じた個別的な経験であるが、その経験の構造を生理学的に説明することは可能だ。あるいは、私にボールペンがどのように見えるのかを言葉を用いて記述し、他人に伝達し、他人がそれを理解してどのような見え方をしているのかを想像することもできるだろう(その想像と私にとっての見え方が同じものであるかどうかは、私が座っている場所に他人に座ってもらい、同じ距離、同じ角度からボールペンを見てもらうようにしてみれば確かめることができる)。経験が個別的なものであるということだけでは経験についての客観的な記述が不可能である理由にはならない。少なくとも、表現受容を知覚の水準で考える限りでは、受容の経験を客観的に記述することは不可能ではない(もちろん、そうだからといって可能だということが証明されたわけではない)。

 第二に、表現を受容する経験は単なる知覚ではなく、主観的な解釈を伴うがゆえに客観的には記述できない、という理由が挙げられる。「ボールペンを見る」のような静止した一つの場面を視覚的に受容するのとは異なり、漫画を読むことは一定の時間的広がりとその時間進行に伴って生起するストーリーを含んでいる。継起する表現どうしの連関とストーリーは個々の読者のそのつどの気分やこれまでの人生経験、漫画作品や作者に対する先入観などによって左右された形で受容される。そうだとすれば、結局のところ記述できるのはその読者が受け止めることのできた範囲とパースペクティヴに限定される。それは「私評」であっても客観的な記述ではないだろう。こうした理由が一見妥当であるように思われるのは、少なからぬ人が「自分の解釈」や「私の感じ方」を反省的に分析したことがないことによる。「なぜ、そのように解釈できるのか」「なぜ、そのように感じられたのか」を問うことなく、「私」を謎めいたブラックボックスのように扱うならば、「私評」は遡及不可能な感情表現の一種でしかなくなる。だが、一歩踏み込んで問いを立て、それに取り組むのならば、「自分の解釈」や「私の感じ方」が生成する根拠と基盤を明らかにすることができるだろう。そして、そうした根拠と基盤が理解可能な言葉によって説明され、その説明を受けた者がこれらの根拠と基盤から特定の解釈や感じ方が生成することを理解できるのならば、ここには受容経験についての客観的な記述が成立していると言える。「誰にも理解されえない」という意味で「主観的」の語を用いることは通常の用法ではない。主観的な解釈とは、特定の前提条件の下で解釈が導き出されたことを示しているのであり、その前提条件と解釈とのあいだをつなぐ論理的連関の客観的記述を排除するものではない(もちろん、まだ客観的記述の可能性は担保されていない。不可能ではないという主張は、可能だという主張の可能性を示すだけで現実性を証明するものではない)。

 第三に、漫画表現を受容する個別的・主観的経験の論理的に正当な記述が可能であるとして、そうした記述が一つの(あるいは一連の)表現に対して複数存在し、一義的にならないがゆえに客観的な記述は不可能だ、という反論がありえよう。しかし、この反論は「客観的」の意味を広くとりすぎている。表現-受容分析が念頭に置いているのは、「客観的な受容」や「客観的な解釈」の呈示ではない。受容の仕方を「客観的に記述」することである。受容の多様性はむしろ積極的に認めるべきものであり、多種多様な受容の仕方のそれぞれを理解可能な形で記述し、それを理解した者が当該の受容の仕方を妥当なものだと認めることができれば、表現-受容分析はその任を果たしたことになる。「~のように読むべきだ」や「~のように読めるはずだ」というのは評者の「価値判断」であり、分析とは区別する必要がある。無論、「価値判断」のない批評は存在しないだろうが、操作の手順としては価値判断と分析を慎重に区別し分析の言語を彫琢することが、「論理的に正当な記述」には不可欠なのである。少なくとも、評者の価値判断があまりにも多く染みこんでいるがゆえに事象の分析が他者に伝わらない、といったことは避けねばなるまい。

 結局のところ、表現-受容分析は「受容経験の可能性の条件」を明らかにすることに主眼を置いている。この言葉遣いから想起されるのは「超越論的transzendental」哲学の所作だが、受容経験から出発し、経験の構造を記述するという点では「現象学Phänomenologie」の戦略と親和性が高いと言って良いだろう。

2. 表現-受容分析の分類

 さて、表現-受容分析の積極的な主張をしていくにあたって、その分析がどのような観点から行われるかを簡単に素描しておこう。

A. 表現-知覚論: materialな(感覚質料的)分析とnominalな(規範的)分析

 知覚の水準で漫画表現の受容を議論するというのは、例えば描線がもたらす心理的効果やコマ割りの視線誘導などを理論化する作業であり、議論の領域としては表現-演出論(いわゆる漫画の技法)と重複するところが多い。扱われるのはコマごとであったり、ページ単位(コマどうしの連関)であったり、ページのめくりに重点が置かれることもあるが、基本的には表現が視覚的にどのように処理され、それがどのような心理的効果とつながるのかを分析する。もっとも、知覚の種類としては視覚だけが対象というわけではない。ふきだしの台詞にせよオノマトペにせよ、表現においては視覚情報だったものが受容と共に聴覚情報へと変換される。あるいは、「言葉」が書かれていなくともドアが閉まる様子が描かれていれば頭の中でドアの閉まる「パタン」という音が鳴る、おいしそうなカレーの描写からカレーの匂いをかぎ取る、といった受容経験も挙げられる。それゆえ、表現-視覚論とい名称は漫画表現の分析に関しては適切ではない。

 この表現-知覚論は、しばしばmaterialな分析の形態をとることが多い。すなわち、特定の表現技法や表現物から出発して、それが読者の知覚に特定の影響を与えるという「仮説」に基づいて分析を行う。言ってみればsense-dataの観点による表現受容の捉え方であり、表現が与える心理的効果を一義的に同定したい論者にとっては採用しやすい。したがって、表現-演出論には都合の良いものなのだが、原因(漫画作品内の表現技法や表現物)と結果(表現を受容した読者の心理的効果)を単純につなぎ合わせるだけに終始するのならば、それは単なる経験則にすぎないし、連関の構造を掘り下げようとすると認知科学的な理論を援用する必要が出てくる。そして、そもそもsense-dataの観点から表現受容を捉えることにどれほどの妥当性があるのか疑問が残る。というのも、原因としての表現技法や表現物はナマのまま読者に与えられているわけではなく、読者の知覚構造に依存した形で現出するからである。言い換えれば、あらかじめ読者の側からの影響を受けた形でしか表現は受容され得ない。その影響は必ずしも生理学的に規定されるものとは限らないのである。

 materialな分析の問題点を補完する形で登場するのがnominalな分析である。これは、読者が(多くは無自覚に)従っている特定の規範によって受容経験の枠組みが規定されているという「仮説」に基づいて分析を行う。materialな分析とは異なり、こちらは読者が抱える規範がどのようなものであるのかを説明する必要があるため、分析の領域はより広くなる。しかも、その規範が「漫画を読む際にのみ用いられる規範」なのか、「視覚表現物一般に適用される規範」なのか、さらには「特定の集団が従う規範」なのか、「言語・文化を共有する人々が一般的に従う規範」なのか、といった規範の適用範囲と従属主体の範囲をめぐる厄介な問題が横たわる。

 実際には、materialな分析とnominalな分析はグラデーションを描くようにして浸透し合っており、表現-知覚論は両方の分析を混合させた形で展開される。そして、そうであるがゆえにmaterialには説明しづらいものをnominalに説明し、またその逆をする、といったような恣意的な分析が行われやすい。そうした分析は出自の異なる分析方法を評者に都合の良い仕方で用いている点で妥当性を疑問視されるべきものである。分析の正当性を確保するためには、materialな分析とnominalな分析の関係性を明らかにした上で、それぞれの領域確定を図らねばならない。

B. 表現-解釈論: inner-textualな(作品内在的)分析とcon-textualな(作品横断的)分析

 表現-知覚論が読者にとっては無自覚な「知覚」を分析対象としていたのに対して、読者がある程度意識的に表現を解釈する領域を分析するのが表現-解釈論だ。これには大きく分けて二つの分析方法が属す。一つはinner-textualな分析であり、漫画作品を一個の完結した作品とみなし、その内的構造の解釈を主眼とするものである。こうしたスタイルは、しばしば漫画作品の「物語」だけを抽出し、その物語構造を読み解くような「評論」にも現れるが、そうした「評論」は実は漫画批評ではない。物語構造だけを抽出して分析するのであれば、漫画に限らず、小説でも映画でも、それこそジャンルは何でもよいことになるからだ。漫画批評足りうるには、漫画の特性(例えばコマ、キャラ、フキダシなど)に即して内的構造を解釈する必要がある。それゆえ、表現-解釈論はつねに表現-知覚論を伴った形で遂行される。

 inner-textualな分析に対して、con-textualな分析は作品を未完結な「部分」として捉え、様々な作品の連結による「全体」に焦点を当てる。全体像は表現-受容の分析である以上、作者やジャンルといったものよりも、受容経験の種類に重きが置かれる。つまり、受容経験の構造的類似性が「全体」を形作るのである(同一の作者が似たような構造を複数の作品で産出することは稀ではないから、結果として作者が「全体」の指標になることもある)。こちらも表現-知覚論と切り離して語られるものではない。

 逆説的に聞こえるかも知れないが、inner-textualな分析は作品を完結した全体と捉えるがゆえに、対象の作品を大きな視野から俯瞰する。他方で、con-textualな分析は作品どうしの構造的類似性に注目するためにそれぞれの作品の一部を切り取るミクロな視点が際立つ。それゆえ、con-textualな分析はmaterialな観点であれnominalな観点であれ、受容経験の一般的な構造を描き出すのには向いているが、一つの漫画作品の独自性や特異な内的連関を見失う傾向がある。反対にinner-textualな分析は「その作品には妥当するが他の作品には妥当するとは限らない」議論を呈示するにとどまり、作品の独自性を尊重することはできても批評としての広がりを欠く。

C. 表現-時間論

 これについては稿を改める。