漫画批評の意義(3)

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 本稿は漫画批評の意義(2)の続きである。今回は、「おもしろさ」の判断基準に優劣をつけるのではない仕方で「論理的な正当性を持つ」評価基準が呈示できるのか、という問いから出発し、それが表現受容の仕方を分析するなかで見出されるであろうという見通しをつけるところまでを考察する。

1. 問題提起

 漫画批評が、読者が個人的に感じた「おもしろさ」を単に伝える感想ではなく、優れた作品を論理的に正当な仕方で見出すことのできるものだとすれば、それには大きく分けて二つの道が存在する。

 一つは、多様に存在する「おもしろさ」の判断基準それ自体の優劣を客観的に規定する方法。例えば、「現代の社会状況を反映した主題を持つ」という判断基準を満たす漫画は、「性的興奮を引き起こす」という判断基準を満たす漫画よりも「優れている」、という価値判断がなされる、といったものだ。実際、読者の多くは自覚的であれ無自覚的であれ、こうした優劣の規定を個人的な嗜好として行っている。あらゆる判断基準を採用し、それをすべて等価に扱った上で、それぞれの判断基準を満たす作品はどんなものでも好んで読むのだという人がいるのだとしたら、その人の本棚は書籍取次の倉庫のようになっていることだろう。問題は、個人的な嗜好の範囲を超えて、説得力を持ちうる仕方で判断基準の優劣を決定できるか、ということである。仮にできるとしても、おそらくそれは、時代や社会状況、文化の変遷といった環境に依存した「共同体的な価値判断」になるのではないだろうか(無論、現代において「共同体」の範囲や構成員は自明ではない)。

 こうした社会学-心理学的分析の対象とは異なる道をここでは考えてみたい。多様な「おもしろさ」の判断基準に優劣はつけず、しかしどんな判断基準においても妥当する「論理的に正当な」優劣の規定である。だが、このような規定はそもそも存在するのだろうか。これが本稿の論点である。

2. 「おもしろさ」「優れている」の判断構造

 先に触れた判断基準の例を再び取り上げよう。「現代の社会状況を反映した主題を持つ」という判断基準によって作品を評価する際、少なくとも3つの手順が必要である。

 (a) 現代の社会状況とは何か。
 (b) 批評対象の漫画作品で描かれている社会状況はどのようなものか。
 (c) (a)と(b)がどれほど一致しているか、を検証する。

このうち、(a)は純粋な漫画批評とは区別される分野の研究を前提とする。しばしば漫画を「ダシ」にして社会を語るような批評は(a)に力点を置いているため、(b)や(c)が副次的なもので雑駁になる傾向がある。それは純粋な漫画批評ではない。現代の社会状況を論じることができるのであれば、素材は漫画でなくともよいのだから。他方、漫画批評に欠かせないのは(b)と(c)である。そして(c)は(b)を前提とする。

 この(b)は二つの側面から捉えなければならない。すなわち、(b-1)作者がどのような社会状況を念頭に置いて、それを漫画作品のなかでどのように表現しているのか、という表現-演出論的な側面。そして(b-2)読者が漫画作品をどのように受容し、それによってどのような社会状況を思い描くことができるのか、という表現-受容論的な側面である。無論、この二つの側面は実際の「読む」という経験のなかでは切り離し得ないものだが、分析の過程では区別して語られるべきであろう。そうしないと、作者が表現しようと思っていたことが読者にうまく伝わらない、あるいは別様に捉えられてしまうという「表現の齟齬」を適切に説明することができなくなってしまう。それは必ずしも「演出の失敗」ではないのだ。この点については別稿にて議論したい。

 さて、今述べたことを図式化してみると以下のようになる。

[批評者が呈示する]現代の社会状況(a)
[作者が念頭に置く]現代の社会状況(b-1) → [作者が実践した]表現-演出
                             ↓
[読者が想起した]現代の社会状況(b-2)  ← [読者の]表現-受容

 このとき、(c)において(a)と(b)の一致とされていたものは、社会状況(a)と社会状況(b-1)との一致だろうか、それとも社会状況(a)と社会状況(b-2)との一致だろうか。この答えは簡単に出る。批評者が作者本人でない限りは、後者である。なぜなら、批評者もまた読者には違いないのだから。そして、作者本人が漫画作品以外の仕方で語らない限り、(b-1)の作者が念頭に置く現代の社会状況は表現を受容する範囲での批評者の「想定」でしかなく、ブラックボックスに隠されている。これを重視するか無視するかで批評のスタイルに大きな違いが出るのだが、ここではそれに触れずに先に進もう。

 (c)において社会状況(a)と社会状況(b-2)の一致が検討され、一致していることがわかればその漫画作品は、「現代の社会状況を反映した主題を持つ」という判断基準の下では「おもしろい」作品だということになる。そして、ここでの「おもしろさ」が単なる個人的な見解ではなく、客観的な意義を持つのだとするならば、少なくとも社会状況(a)、社会状況(b-2)、(a)と(b-2)の一致(cの検討)、そして表現-演出と表現-受容の分析が「論理的に正当化できる仕方」で遂行される必要がある。社会状況(a)を「論理的に正当化できる仕方」で分析すること自体が高いハードルを持っているが、漫画批評に限定すると表現-演出と表現-受容の分析が重要になる。なぜなら、この分析が適切に遂行されなければ、そもそも他の分析は妥当性を持たないからだ。さしあたり、この分析を簡単に「表現分析」と呼んでおこう。

 先に挙げた例に限らず他のどんな判断基準においても表現分析は必要な要素である。例えば、「性的興奮を引き起こす」という判断基準においても表現分析は必要だ。もちろん、「現代の社会状況を反映した主題を持つ」という判断基準の場合とは焦点が異なる。しかし、どのように演出された表現の有り様が読者にとってどのように受容され、何が想起されるのか、という表現分析の構造自体はいずれの判断基準においても保持される。それゆえ、漫画批評にとって呈示できる「論理的な正当性を持つ基準」があるとするならば、それは表現分析の理論的構造のなかにあると言える。
 

3. 表現分析

 一般に、「表現」という言葉は表現する者、すなわち製作者の視点から語られることが多い。表現する者の心内に「表現したい事柄」が存在し、それを表現する者は作品を通して表現する、という理解の仕方だ。この理解に即せば、「製作者の意図」を正しく言い当てた読解が「正しい批評」になる。学校教科としての国語において「作者が言おうとしていることは何か」と問う姿勢はこうした表現理解の最も素朴な現れである。
 これに対して、受容する側から表現を捉える理解は「製作者の意図」を等閑に伏す。もう少し正確に言えば、「製作者の意図」なるものがあったとしても、それは常に表現を通してしか捉えることができない。それゆえ、表現をどのように受容したか、によって、想定される「製作者の意図」の内容は大きく左右される。受容不可能な「表現したい事柄」は存在しないも同然である。もし表現の受容の仕方が「論理的に正当な仕方」で記述できるのであれば、受容する側が表現を通して想起したものこそが「表現されている内容」なのであり、「製作者の意図」が厳密に規定される必要はないことになる。

 国語の問題を再び参照すると、「ここで登場人物は何を考えていたか」や「この文で述べられていることは何か」という「作者を主語にしない問い」は表現の受容を問題にしているといってよい。だから、そうした国語の問題の解答が自分の考えていることと違う、と憤る作者がいてもそれはおかしなことではない。出題者は、あるいは批評者は、そもそも作者が何を考えているかなど問題にしていないのである。作者は自分が意図していたことが伝わっていない、というより、自分の意図が度外視されていることに憤っているのだ。そして、そのように憤る作者は、たいていの場合、「表現」から切り離された「表現したい事柄」が自分の心の中に厳然として存在するのだと思い込んでいる。作者もまた表現の受容者であることを棚に上げてしまっている。作者とは、作品として表現される以前に「表現したい事柄」として作者自身の心内に立ち現れる「表現」を受容する者なのだ。それゆえ「表現したい事柄」や「製作者の意図」なるものは、実は製作者が自分の心内に浮かんだ表現を受容し、解釈したものに他ならない。そうした製作者の受容の仕方だけが唯一正しいものだとする根拠を製作者が説明できたときに初めて製作者の憤りは正当なものになる。

 話を戻そう。果たして表現の受容の仕方を「論理的に正当な仕方」で記述することはできるのだろうか。言い換えれば、表現を受容するという経験の構造を客観的に説明することは可能なのだろうか。漫画批評が単なる感想の域を超える意義を持つのだとすれば、まさしくこの問いに応えねばなるまい。